ニニウとは私が住んでいる占冠村で最も南に位置する集落だ。我が村は鵡川に沿って集落が点在しており、ニニウはその一番下流にある。最上流のトマムから中央までは源流部と言うこともあり比較的水量も少なく流れも緩やかだが、中央付近で支流が集まり、ここからはまではまるで違う川のように激しい流れとなり渓谷が深く刻まれている。この渓谷は赤や青灰色の岩がゴロゴロしていることから「赤岩青巌峡(あかいわせいがんきょう)」と言われており、紅葉の時期にはカメラマンや見物客が集まってくる村唯一の名勝である。ニニウはこの赤岩青巌峡をすぎたあたりのポッカリと渓谷が開けた場所にある。ニニウを集落といったが、現在はわずかにひと組の夫婦が暮らすだけで、廃屋があちらこちらに見られる。その廃屋も最近では雪の重みに堪えきれなくなり数棟を残すのみとなっている。ニニウには明治の末期に石炭の採掘が期待できると踏んで入植がはじまり、林業で栄えた昭和20〜30年代には40戸近い集落となった。しかし、占冠村の中央でさえ陸の孤島といわれた時代に、さらにその中央から渡し船で鵡川を渡り、この鬼峠を3時間以上かけて超えなければならないような所に集落があったとは、今の感覚からいうと到底信じられない。鬼峠はそんなニニウが最も活気ある時代に、ニニウで生活する人々にとって唯一の外部と通じる道だった。新得から嫁いだ花嫁が、最寄りの国鉄金山駅からニニウまで5足のわらじを履き潰して1泊2日かけてやっとたどりついたという話、また、中央で芝居や映画があるからと、農作業が終わる夕方から15、6人、小走りで鬼峠を越えて中央まで2時間半、芝居が終わって月明かりの中ランプも持たずに真夜中の峠をまた2時間半越えて帰ってくる、そんな逸話がいくつも残っているのだ。昭和35年に現在のような赤岩青巌峡を通る川沿いの道路が開通し、昭和41年には中央から遅れること16年経ってようやく電気が通じた。しかしこれらのインフラ整備と逆行するかのように、山の仕事は徐々になくなりニニウで暮らす人も少なくなった。昭和50年にはとうとう新入(ニニウ)小中学校が64年の歴史に終止符を打った。
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スキーズボンに毛糸の帽子、フリースの上着を着込んで足元には現代版かんじきスノーシュー。リュックにはおにぎり2個と唐揚げのお弁当、行動食、そしてデジタルカメラとスケッチの道具。携帯電話も持ってはいるが峠の頂上から向こう側では通じないはずだ。良く知る地元の山とはいえ、鬼峠を越えるのははじめて。雪中の単独行なので万が一迷いでもしたら命取りだ。前日の夜は緊張して地図に旧鬼峠のルートを赤鉛筆で書き込んできた。というのも、5年ほど前に「ふるさと林道鬼峠線」という新しい林道が整備され、頂上まではほぼ旧道をなぞらえた形でルートをとっているが、頂上から先は古い鬼峠とは別のルートで大きく迂回して元の道々につながっており、ニニウ側へ抜ける古い鬼峠は現在の地図からは消えているのだ。実はつい先日、意気込んで鬼峠越えを目指したものの、この新しい林道を疑うことなく歩いてしまったのだ。もうそろそろニニウに着く頃だろうと思っていたら、着いたところは何だか見覚えのある景色。まさかとおもって近づいてみると、やっぱり「レクの森」というニニウとは全然違う場所だった。峠の頂上から見てニニウは北、レクの森は南と方向が全く違うのだから、歩いていて太陽の位置でわかりそうなものだが、人間信じ込んでいるとそれすら気付かない。4時間歩いたのに、これには全く閉口であった。次の日に早速役場へ出向き、旧道と新道が一緒に記載されている図面を探してもらった。さらに等高線が細かく出ている林業用の図面をもらって、それに旧道を書き込んだ。この冬1度目は峠の頂上まで試しに登ってみた。そして2度目が先日のとんだ間違い。今回こそはニニウで暮らした人たちが辿った鬼峠をなんとしても越えて3度目の正直としたい。
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おわり |